2024年 12月号 「私の音楽人生 ~大学時代~」
竹本義明
1967年から東京で大学生活を始める。函館から上京した私にとって、同級生の音楽や楽器に対する知識や技術に圧倒される。先生は当時NHK交響楽団の野崎季義先生で、包容力のある指導で充実した学生生活を送ることができた。
レッスンは、先生がオーケストラ団員のため不定期であったが、先輩がそれを補うような指導をしてくれた。3年生になり先輩や卒業生からエキストラの仕事を依頼され、オーケストラやダンスホール、キャバレー等で演奏をした。
トランペットという楽器の特徴から、ジャンルを問わず仕事があり、様々な経験を積んだ。オーケストラは練習があって本番を行うが、ジャズやポピュラー(ポップス)は全てぶっつけ本番で、初見演奏(楽譜を見て直ちに演奏すること)の力が身についた。
エキストラは先輩からの依頼が多く、オーケストラは主に東京交響楽団や東京フィルハーモニー交響楽団で演奏した。通常の公演に加え当時はソ連からモスクワ、レニングラード、キエフの三代バレエが来日し、全国ツアーの演奏を行ったことが記憶に残っている。
オペラは、東京二期会や藤原歌劇団の伴奏で全国ツアーに参加した。在京オーケストラの寄せ集めで組織されたオーケストラへの参加である。また、ABC交響楽団のメンバーで組織するオーケストラ(近衛秀麿が関係した楽団で当時はほぼ消滅した状態であった)が音楽鑑賞教室で地方公演を行う際に参加した。
また、山形交響楽団の創立に向けて指揮者の村川千秋のもとで数多くの公演に従事した。メンバーの中にはそのまま団員として活動することを選んだ者もいた。大学のオーケストラ授業は年に2回の公演のみで、限られた曲しか演奏しないが、エキストラ活動は次々と新曲に対応する必要があり、その後の活動に大いに役立った。
一方、当時の時代を反映してキャバレーやダンスホールで、ジャズやポピュラーの仕事も多く依頼され、音楽ジャンルの幅を広げることに役立った。新宿ステレオホールや浅草や錦糸町のキャバレーでの演奏に従事した。
オーケストラと違い、社交ダンスでは切れ目なく曲が流れるため、バンドマスターの指示で楽譜を用意するだけで大変であった。特にラテン系のタンゴ、チャチャチャ、サンバ、ルンバには苦労した。バンド2つが30分で交互に演奏し、交代するときは必ずワルツが演奏された。これらの演奏は夕方からの仕事であり、授業後のため単位修得に影響がなかった。
また、当時テレビの歌番組の生放送では、夜の生放映でも朝から出勤し楽譜チェック、衣装の映像チェック、歌手を入れてカメラリハーサル後に本番を迎えるため、4回も演奏することになった。大学卒業後、名古屋で活動することになるが、初めて名古屋に来たのは北島三郎の専属バンドの一員として、長島温泉に来たことである。数日間演奏に従事したが、当時「函館の女」のヒットが続いており楽しく演奏した。
次号では、名古屋フィルハーモニー交響楽団の楽員時代について。