― 芸術と科学のハーモニーを奏でる「創造の丘」武豊町民会館 ―

ゆめたろうプラザ

芸術と科学のハーモニーを奏でる「創造の丘」

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2025年 1月号 「私の音楽人生 ~名古屋フィルハーモニー交響楽団楽員時代~」

竹本義明

名フィルには、1971年後半からエキストラとして演奏に従事し1972年に入団した。1973年財団法人化と同時に正式に活動を始めるが、入団を決めたのは、在京のオーケストラと違い将来の発展に希望を感じたからである。

当初、東京のオーケストラで3年程度活動し、函館に帰り教職に就くつもりであった。それは先生や先輩からオーケストラは不安定で、生活の目途が立たないといわれ続けていたからである。しかし、名フィルには可能性があると考え決断した。

オーケストラには入団試験があるが、私は入団前の半年間エキストラとして演奏していたので、それが入団オーディションであったと考えている。現在では1パートの入団試験に数十人が受験するので、とても入団することはできないだろう。

入団してからは演奏の他、仲間と労働組合を組織し楽団運営の向上に力を入れた。地方オーケストラとしての名フィルを、全国レベルの楽団にするためであった。演奏力向上はもちろん楽団員の待遇改善、事務職員の運営能力向上のためでもある。

当然指揮者体制についても理事会との折衝を積極的に行ない、楽団員の演奏力向上への取組みを進めた。名フィルは財団化が名古屋市の出捐により行われたため、その後の事業予算の骨格が完成し着実に発展を遂げた。

その後、全国のオーケストラとの交流を重視し、日本音楽家ユニオン(職業音楽家と音楽関連の労働者の個人加盟制の労働組合)に加盟し、私も本部役員としてオーケストラ協議会担当として全国を飛びまわる生活が続いた。

札幌交響楽団、広島交響楽団、九州交響楽団、京都市交響楽団の団体交渉に出席した。また、大阪フィルハーモニー交響楽団、オーケストラ・アンサンブル金沢の組合設立に関与した。

名フィルの演奏活動も年間100回を超えるようになったが、オーケストラ以外の演奏活動として、金管五重奏でのアンサンブル、パイプオルガンとのデュオコンサート、そしてアマチュア奏者への指導活動を行った。

オーケストラ退団前の1988年に初めてとなる海外演奏旅行を行った。楽団が実施を躊躇する中、いち早く楽団員の意思をまとめ、フランス、スイスでのヨーロッパ2か国の公演(パリ、リヨン、ブザンソン、アヌシー、ジュネーブ)を実現させた。

また指揮者体制については、常任指揮者として1981年から外山雄三氏、1987年からはモーシェ・アツモンを実現し、新たな演奏力の充実を可能にした。

昨年、しらかわホール存続について日本オーケストラ連盟を訪問した際、役員の方から名フィルの評価を聞いて驚いた。様々な条件を評価するとNHK交響楽団、読売日本交響楽団に次いで3番目ということであり、自分が入団を決めたときの希望がかなえられた思いである。

1989年(平成元年)3月で名フィルを退団し、名古屋芸術大学に転職した。

次号では、名古屋芸術大学の教員時代について。